エッセーと小説

  • 2020.07.19 Sunday
  • 14:13

JUGEMテーマ:外国語学習

外国語学習をなんとなくしている、また、したいと思っている方のために少しでも役に立つことを「 note 」でまとめられたらと思っています。

 

「やっぱ英語できると儲かるんですかね」

http://note.com/panasea/n/n84e8e20966aa

 

それで、もう、壁に突き当たってまして・・・

実は、エッセー風の文章を書くとどうしても「モデル」みたいな実在の人物のことを多少なりとも書くことになります。

私の尊敬する作家の北杜夫などは、若い頃の先輩後輩のことをあだ名をつけつつ縦横無尽に書いていました。

当時でも、「俺のことを書いたな」とむっとしたりもっと反応するひともいたかもしれません。

しかし、昭和はインターネットが普及していなかったので、一般的にエゴサーチをしているひとは少なかったようです。

今は、自分のことを検索する(エゴサーチ)もおられるでしょうが、それに関連して、自分がチェックしている過去の知人のことを検索しているひとも多いような気がします。

 

フランス語の講師をしていたと以前書いたと思いますが、昔の知人が不気味に見学にきて「なにやってるかと思って。習う気はない」といって去っていったことなど複数回ありました。

正直いって、リアルの知人は恐ろしいです(+_+)

だから検索されるようなことは書けないというのが21世紀の悩みなんですよね。

 

だいぶ前に、作家の林真理子さんが「みんなエッセーに書いてあることが本当で小説はフィクションだと思うでしょうが、実際は逆なのだ」という意味のことを書いておられました。

エッセーこそひとめに触れやすいので、なまじっかのことは書けず、構造的にも自分の損になるようなことは書けない。

フィクションは「小説だから」ということで、かなり大胆にモデルのことを描写できる・・・ということでしょうか。

 

面白いことを書こうと試みると、どうしても「小説より奇なる」事実を交えて書かないとならなくなるのですが、そうすると、生きている間、そのことを気にしないといけないということになります。

もちろん、文責というのは書いたものにあります。

しかし、世の中は複雑で、事実をありのままに書いただけで、また、匿名で書いてあっても、「あれは私だ」といってくるひとというのが一定数いるものです。

 

だから、私が書くものは、他の小心で常識を重んじるひととひとしく、モデルのあるようにみえる部分は合体ロボットのように特定のひとの事実から書いてはいません。

 

と、ここに記す。

 

ぱなせあつこ

 

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